こんにちは。
前回に引き続き富士山の信仰について学んでいきます。
現在、富士山には日本のみならず世界中から20万人を超える登山者が毎年訪れます。
かつては修験道の山として限られた人しか登る事のなかった富士山、それが庶民にも広がり多くの人々が富士山の登頂を目指す一代ブームが巻き起こったのが江戸時代です。
富士山を信仰し祈願のため富士山頂を目指すグループ「富士講」がきっかけとなっています。別名浅間講ともよばれます。
江戸時代の前期、角行(かくぎょう)によって基礎が築かれ、その後富士講の中興の祖、食行身禄(しきぎょうみろく)により爆発的にその信仰が広がり、本格的な庶民の富士信仰が起こりました。
その登山のグループは、数人の小さなものから百人を超える大所帯まで、代参講と呼ばれる信者らがお金を出し合って代表者が参詣(富士詣)するものでした。
その中でも富士登拝の経験が豊富で人格的にも優れたものは「先達」(せんだつ)の名で知られ、グループのリーダーとして信者を引き連れる役割を担っていました。
また、富士講で富士登拝をする人々に宿を提供し、登拝のための様々な世話をする「御師」(おし)と呼ばれる人達も、富士講の富士登拝において大きな役割を担い、宿の主人としてだけでなく、教義の指導や祈祷、各種取次業務を行うなどしていました。
こうした御師の家は江戸時代初期から明治の初めころまでは、およそ80軒ほどあり最盛期には100軒を数えるまでになったと言われています。
また富士講が栄えたこの時代には江戸を中心に富士山を模した塚「富士塚」が各地に造られ、遠くの富士山に登る事ができない信者や子供・年配者また富士山の登頂をゆるされていなかった女性らを中心に、気軽に登る事ができ、富士登拝と同じご利益が得られるようにとの願いから利用され、信者のみならず高い人気を博したそうです。
別名「お富士さん」とも呼ばれます。
富士講の活動の中心は、富士詣(登拝)で、精進潔斎を行い、頭に宝冠を戴き白衣(びゃくえ)を着て金剛杖を突いて「六根清浄(ろっこんしょうじょう)、お山は晴天」の掛け声とともに登ります。
ちなみにこの六根清浄は「どっこいしょ」の語源ともいわれています。
以上が富士講の概要ですがその富士講の隆盛に大きく関わり、先にも紹介した角行・食行身禄の二人の人物についてもう少し学んでいきます。
「角行」は室町時代末期から江戸時代初期の山岳修行者で富士講の開祖と言われる人物。
末代上人より開かれた山岳修行を富士講として全国に広めました。
角行は、1541年備前国長崎で生まれ、18歳の時、治国済民祈願(ちこくさいみんきがん)のため諸国霊場巡拝の旅に出ました。その行中、役小角より「富士に行け」というお告げを受け富士山麓の人穴洞窟にこもり、四寸五分(約14cm)四方の角材の上に立ち続けるという行法を千日行い、1560年、60年に一度の庚申(かのえさる)の年に、仙元大菩薩より「角行」の名を授けられ、一切衆生の救済を目指しました。
その後富士登拝や湖水での水行などを行い、各地を延国し、人々を救済しながら多くの信者を獲得し富士講を広めました。そして、1646年、106歳にて人穴洞窟で入定したと言われています。
その角行の開いた富士講を発展させたのが「食行身禄」です。
食行身禄1671年伊勢国で生まれ、17歳で富士講5代目のの月行の教えに触れ富士講に専心、月行の死後は角行から数えて6代目を名乗ります。
食行とは断食、身禄は未来仏の弥勒にちなむ。
身禄の信仰の基礎は「正直・慈悲・情け・不足」であり心の中に平安を生み出すことで、理想世界の「みろくの世」をつくろうとしました。
1733年、吉田口より登攀し富士山七合五勺の烏帽子岩にて、みろくの世の到来を願い、入定し即身仏となりました。
その後、彼の身は烏帽子岩天拝宮内の石製厨子に納められたとされ、更に身禄の弟子であった田辺十郎右衛門に説き聞かせた「三十一日の巻」が人々の共感を得て、江戸八百八講といわれるほどの膨大な数の講ならびに富士講徒を生み出すことになりました。
またその多くは身禄ゆかりの吉田口から登攀し吉田の地は一気に繁盛することになったのです。
その後、江戸中期から末期、明治初頭に至るまで富士講は隆盛を誇りましたが、明治以後とりわけ戦後は富士講は大きく衰退し、現在活動を続けている富士講も御師もわずかとなっています。