富士山頂へ続く各登山道の歴史やその背景について学んでいきます。
今回は「御殿場ルート」です。
ここまで富士宮ルート・吉田ルート、そして須走ルートの歴史について学んできました。
御殿場ルートは現在の山頂へ続く四つのルートの中で最も新しくできた登山道であり、起点となる御殿場口新五合目の標高は1440mと最も低い登山口になります。
御殿場ルート:御殿場口登拝道 /須山口登拝道
御殿場口登拝道は、1883年(明治16年)に開かれた最も新しい道で「富士山東表口」とも称されます。
二合八勺(現在の御殿場口新五合目は二合目に相当)から須山口登拝道と合流しますが、御殿場の町を起点とし三合目までの道のりが緩やかだったため登山客が急増。
特に1889年(明治22年)東海道線が開通し御殿場駅ができると女性や外国人の登山客が殺到しました。当時はまだ交通網が発展しておらず、東海道線(現在の御殿場線経由)が開通したことにより、御殿場の町から登頂を目指す富士登山が最も容易になった事と、新しい登山道であるという事が多くの登山者(登拝者)の興味を引くこととなりました。
その後、1932年(昭和7年)の富士山測候所開設後は測候所までの荷上路としても使われました。
その御殿場口登拝道と合流する「須山口登拝道」は、富士山南東麓の須山浅間神社(静岡県裾野市須山)を起点にし浅間ヶ岳(現在の駒ケ岳)に至る登拝道です。
大宮・吉田口登拝道についで古く、鎌倉時代から使われていたとも言われています。東海道から来た登拝者は三嶋大社で参拝したのち愛鷹山の裾をとおり須山に入ります。
1707年に宝永の大噴火の影響により、甚大な被害をこうむり、中腹の御胎内神社や山室(山小屋)などがことごとく壊滅、本格的な復旧は1780年までかかることになりました。
その後、1912年(明治45年)に富士山東麓が陸軍の演習場として利用されるようになり衰退。そして平成に入り地元有志らの手により登拝道が復活、現在に至ります。
現在、御殿場口登山道の標高2050m(二合八勺)以上及び須山御胎内(かつての一合目・須山御胎内神社)周辺は世界遺産富士山の構成資産の一つとなっています。
御殿場ルートの起点である御殿場口新五合目に至る道路は、他の三ルートと異なり山開きのシーズンでも車両規制がなく登山口まで自車で行くことができます。
ただ、山小屋も少なく、真夏の炎天下の陽をさえぎる森もないスコリアに覆われた砂礫道を歩くことは難儀であり、登山口からの標高差も実に2300m、初心者向けのルートではありません。
下山ルートは7合目まで登りと同じ道を下り、ここから道が分かれます。
その先は、富士登山駅伝でも知られる御殿場ルート下りの「大砂走り」が始まり、砂ぼこりを上げながら御殿場口新五合目登山口までひたすら下っていきます。
また、砂走りの途中を宝永山へ向かい、宝永火口を下ると富士宮口に至ります。
この道は「プリンスルート」と呼ばれ、令和天皇が皇太子時代の平成20年、富士宮口から宝永火口を経由し御殿場口登山道へ合流、富士山頂へ至ったことに因んだルートとなっています。