富士山を学ぶシリーズ、芸術の源泉編、鎌倉時代~室町時代の文学について学んでいきます。
前回は古典文学として平安時代の富士山に関する文学について学んできましたが今回は鎌倉時代以降になります。平安末期から鎌倉時代は富士山の噴火もおさまり、文学等において噴火に言及する記述もありません。
また、このころから江戸に至るまでは戦がたびたび起きた動乱の時代であり富士山に関する文学に限らず残されている文学自体も多くありませんが代表的なものや一般に知られたものをいくつか見ていきます。
平家物語
平家の栄華と没落、武士階級の台頭を描いた鎌倉時代に成立したとされる軍記物語。
特に富士山についての描写はないようですが関連する話としては富士川の戦いや富士山の麓にゆかりのある源頼朝に関する話が登場します。
吾妻鏡
鎌倉時代に成立した初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記。
源頼朝が征夷大将軍たる権威を誇示するためや軍事演習などの目的のために実施したといわれる富士山南麓で行った巻狩りの様子や、その巻狩り後、頼朝の家臣である仁田忠常が人穴を探索した様子が描かれています。
新古今和歌集
鎌倉時代初期に編纂された和歌集。全20巻、1970首あまりで富士山を詠んだものは10首
【西行法師】
風になびく 富士の煙の 空に消えて 行方もしらぬ わが思かな
「風になびく富士の煙が空に消えた。私の心も同じようにどこに行くのか行方がわからない」
似たような描写で
【源頼朝】
道すがら 富士のけぶりも わかざりき 晴るる間もなき 空のけしきに
「旅の途中、富士山を見たが晴れ間のない空模様で煙もはっきり見分けることができなかった」
その他、鎌倉時代の和歌集として「金槐和歌集」「最勝四天王院障子和歌」がありこれらにおいても富士山を題材とした和歌が多数詠まれています。
十六夜日記
鎌倉時代(1283年頃成立)に藤原為家の側室・阿仏尼によって記された紀行文日記。
ここでも「富士の山を見れば煙もたゝず」など富士の噴煙についての描写がいくつかでてきます。また阿仏尼は「うたたねの記」においても富士山について記しています。
室町に入り南北朝時代に成立した(1371年以降)といわれる後醍醐天皇の皇子、宗良親王の家集「李花集」においても富士山の噴煙に関する描写があります。
この時代の文学には富士山の噴煙に関する記述が多く見られます。
ただ、噴火の記録は残っていないため富士山が噴煙のみを上げていた、もしくは平安時代に詠まれた歌のイメージから、霧や雲などが噴煙に見えただけの可能性もあります。
現在のところ鎌倉から室町にかけて確実に噴火があったといわれるのは1435年で、甲斐の国の住職らが残した「王代記」に記されています。
能
室町時代、観阿弥・世阿弥親子によって能が大成しました。
富士山を題材にしたものとして、かつて方士(徐福?)が不死の薬を求めて富士山に来た話や竹取物語のエピソードなどを題材にした能「富士山」。羽衣伝説をもとにしてつくられたといわれる能「羽衣」があります。
そして最後に、鎌倉時代の将軍として最も富士山にゆかりのある人物としては初代将軍 源頼朝が挙げられますが、足利将軍の中で富士山のゆかりのある人物というと悪名高き第6代将軍 足利義教になります。
かねがね富士山を見物したいと願っていた義教は1433年9月、富士山を見るために駿河を下っています。その様子が「富士紀行」「覧富士記」「富士御覧日記」に残され、義教自身も富士山を題材に歌を詠んでいます、いずれの作品も古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品を編纂した『群書類従』に収められています。
また、義教の富士遊覧で立ち寄った場所として「潮見坂」(静岡県湖西市)や「清見寺」(静岡市清水区興津)「三保の松原」(静岡市清水区三保)などが知られています。