今回は富士登山の歴史について学びます。
富士山の頂上への登山は7月の山開きから2ヶ月に渡って解放され、老若男女、国籍を問わず毎年30万人近い登山者が頂上を目指し登っています。
現在の富士登山は観光のための登山がほとんどですが、かつての富士登山は信仰のための登山「登拝」と呼ばれていました。
古来より富士山は信仰の対象としてされ、この「登拝」が一般庶民の間で広まったのは江戸時代。
それ以前は修験者とよばれる一部の人のみが登る山でした。さらにそれ以前の富士山は噴火を繰り返す山であったこともあり、「遥拝」離れた場所から仰ぎ見ることによる信仰の山でした。
その富士山に最初に登ったのは誰なのか?いつの時代なのか?また富士登山はどの様な歴史を経て現代に至るのか?を学んでいきます。
古代の富士登山についてはその時代に記された書物から知ることができます。
ただその多くは、馬に駆って富士山を登ったといわれる聖徳太子や伊豆大島から海を歩き富士山で修業をした役小角など伝説的逸話の話が多く、確かな記録として残っている物は多くはありません。
その中で富士山の頂上を含めた記録が記されている最古のものは、平安時代初期の貴族であり文人、都良香が編纂した『富士山記』といわれています。
富士山記では伝承の逸話とともに山頂についての具体的な景観が描写されています。
「頂上に平地あり。広さ一許里。その頂中央の窪下の体、吹甑のごとし。甑底に神池あり。池中に大石あり。石の体は驚奇にして宛も蹲る虎のごとし」
この描写は現在とほぼ同じなものとされ、この時代に良香本人が登頂したものか、または登頂者から聞き伝えられたものと考えられています。
ただこの時代はまだ富士山の噴火が盛んだった時期でもあり、いつ頃登ったものなのか、またどこの登山道から登ったのかも分かっていません。
そして平安末期、富士山の噴火が小康状態になった頃から、本格的な「登拝」が始まったと言われています。
1149年、駿河の国の修験者末代が山頂に大日寺を建立。富士登拝の基礎を築いた人物とされ、富士上人とも呼ばれます。
その後修験者たちによる、富士宮本宮浅間大社から村山浅間神社を経由し登頂を目指す大宮・村山口登拝道よりの登拝が盛んになり村山口は賑わうようになります。
この村山の地から富士登拝・富士山信仰が始まったともいえます。
その後鎌倉時代・室町時代と富士修験は発展し、室町時代後期に描かれたといわれる「絹本著色富士曼荼羅図」にも浅間大社から村山浅間神社を通り、列をなして山頂を目指し登拝する姿が描かれています。
そして江戸時代、富士信仰の在り方を根本的に変えた長谷川角行が登場。角行は人穴で修業し仙元大菩薩よりお告げを受け、吉田口より富士登拝を成功させると、その後も諸国を遊行し、多くの信者を獲得。106歳になった角行は人穴に再び戻り入定したとされています。この角行の教えが富士講として広まっていきます。
また角行が富士山の北麓を中心に活動したことで富士信仰の中心地が大宮・村山を中心とした富士山南麓から北麓に移り、富士講中興の祖である食行 身禄が吉田口登拝道の7合5尺の烏帽子岩で入定したのを契機に江戸の庶民がこぞって吉田口より登拝するようになり、その後江戸八百八講と言われるほど富士講は隆盛を誇り、先達に導かれた信者による組織的な登拝が行われ、麓の吉田の地でも富士講を迎える御師が大いに栄えることになります。
一方それだけ隆盛を誇った富士登拝においても他の霊山と同様女人禁制とされ、富士講徒の女性らは二合目の御室浅間神社までしか登る事が許されませんでした。
実際に女人禁制が廃止され、正式に女性に開山されたのが1872年(明治5年)です。
それまで女性信者は山頂へ登る事が許されませんでしたが、身禄の法脈であり女人開山を提唱した小谷三志らが身禄の百年忌1832年に25歳の女性、高山たつを連れ吉田口より雪中登山を果たし女人禁制を破ります。これが女性初の富士山登頂になります。
その後は1860年(庚申)御縁の年に多くの女性が登頂、女人禁制は形骸化されていきます。
また同じ1860年には英国公使ラザフォード・オールコックが外国人として初めて富士山登頂に成功。時は幕末、尊王攘夷運動が活発だったこともあり幕府はオールコックの富士登山申し入れを拒否するも強行、100人近い護衛を付け大宮・村山口登拝道より登頂を果たしています。
明治以降も鉄道網など交通の発展とともに登拝者も増え富士講の活動も活発でしたが、戦後その勢いは鈍り、1964年富士スバルラインの開通以後登拝は急速に衰えていき、観光登山へと変化していきます。