前回、富士登山の歴史について学びました。
今回はその続き、「富士山の登山道」について学んでいきます。
登山道は古くは登拝道と言われ、駿河では大宮口・村山口・須走口・須山口・上井出口、甲斐は吉田口・精進口・船津口・明見口などといった道がありました。
しかし、五合目まで車で行くことができるようになった現在では、
富士スバルライン五合目(標高2305m)を起点とする「吉田ルート」
富士宮表口五合目(標高2400m)を起点とする「富士宮ルート」
須走口五合目(標高2000m)を起点とする「須走ルート」
富士山御殿場口新五合目(標高1440m)を起点とする「御殿場ルート」
の四道が中心になっています。
そして、いずれのルートもすべての登山道または大部分の登山道が世界文化遺産の構成資産の一つに数えられています。
富士宮ルート:表口「大宮・村山登拝道」
静岡県富士宮市、現在の富士宮ルート六合目以上
吉田ルート:北口「吉田口登拝道」
山梨県富士吉田市、北口本宮浅間神社~吉田口五合目(富士スバルライン五合目ではない)~山頂
御殿場ルート:南口「須山口登拝道」
静岡県裾野市、現在の御殿場口ルート標高2050m以上及び須山胎内周辺(標高1435m~1690m)
須走ルート:東口「須走口登拝道」
静岡県駿東郡小山町、須走ルート五合目以上
1964年山梨県側に富士スバルライン、1970年静岡県側に富士スカイラインがともに五合目まで開通したことで万人が登頂できるようになる一方、五合目までの遺跡や小屋、使われなくなった登拝道など多くが廃絶となります。
先の四ルート以外で今も残るかつての登山道は、精進口(精進湖周辺~富士スバルライン五合目合流)須山口(須山浅間神社~御殿庭上~宝永火口分岐~富士宮口六合目合流、または須山浅間神社~須山胎内~幕岩~御殿場口次郎坊(旧二合勺)合流)村山口(村山浅間神社~村山古道~富士宮六合目合流)船津口(河口湖周辺~船津胎内~富士スバルライン五合目合流)の四道になります。
五合目までの自動車道の開通は、富士登拝を富士登山に、そして信仰の山から観光の山へ大きく変革するきっかけとなりました。
そしてこれらかつての登拝道にもそれぞれ異なる背景・歴史があります。
現在の富士登山につながる富士山登頂の一大ブームが江戸時代に訪れました、富士講徒による富士山登拝です。
富士講は江戸時代に始まり江戸中期に爆発的な人気となり多くの富士講徒が列をなして登頂を目指すようになりましたが、江戸末期になると高尾山登拝と大山登拝を兼ねる富士山登拝「三山詣」が一般的なものとなります。
江戸を出発し甲州道から八王子を経て高尾山へ登拝、小仏峠を越え再び甲州道へ。大月まで進み富士山へ南下、冨士みちを進み吉田の町へ。吉田にて御師宅へ宿泊、その後吉田口登拝道より富士山へ登拝。以上が往路。
復路は、須走口登拝道で下山。須走から足柄道を経て松田へ入り大山詣の後、東海道を通り江戸へ。富士登拝の最中は一切の執着を捨てた道者のふるまいでしたが、その帰路においてはにぎやかな宿場町がある東海道にて精進落としと称し大いに羽目を外した旅となっていたようです。
次回、各登拝道が始まる背景・歴史等について学んでいきます。