今日も富士山について学んでいきます。
テーマは、富士山と人の歴史(縄文時代~平安時代)
以前富士山の成り立ちについて紹介しておりますが
今回は、私たち日本人と富士山の関わりの歴史について学びます。
縄文時代の始まりは今からおよそ1万6千年前と言われており、新富士火山の噴火が活発になり始めた頃とほぼ同じ時期です。
よって、富士山と私たち日本人の草創期は同じであるともいるのではないでしょうか??また、この時代は最終氷期の末期でもあり地球が温暖化に向かう時期でもあります。
そして富士山周辺でも渓流や湖、丘陵、大地などを中心に縄文遺跡が数多く発見されており、こうした遺跡はその時代に富士山一帯に人が住み生活を営んでいたことを示すものになっています。
特に知られているのが現在の静岡県富士宮市に位置する二つの遺跡「大鹿窪(おおしかくぼ)遺跡」と「千居(せんご)遺跡」
大鹿窪(おおしかくぼ)遺跡は2002年発見された縄文草創期の大規模な定住集落で、富士山一帯で最古の竪穴住居集落跡や2万点を越える土器・石器類も見つかり、石を集めて料理をしたと思われる集石遺構、祭りをした痕跡と思われる配石遺構も確認されています。
また、千居(せんご)遺跡は大鹿窪遺跡の北、丘陵上古富士泥流層から見つかった東西・南北50mに広がる縄文時代中期から後期にかけての大規模な遺跡。
千居遺跡で特徴的なのは、富士山に向かって並べられたイギリス・ストーンヘンジに代表されるストーンサークルと呼ばれる環状の配石遺構が見られること。
これは「特定の時期に小さな集団が繰り返し集まってくる特別な場所」として見られ、この時代から富士山を祀って信仰の対象としていたことがうかがわれるものです。
その他、富士山周辺の縄文遺跡としては富士山北麓、富士吉田市に位置する池之元遺跡や上中丸遺跡、また、河口湖や精進湖・本栖湖などの湖底やその周辺でも弥生時代から古墳時代にかけての遺跡が発見されています。
古墳時代から平安時代にかけては富士山の噴火活動が活発だった時期で、この頃から富士山のことが書物で登場するようになります。
富士山がはじめて登場した書物は奈良時代初期の731年に編まれた『常陸国風土記』(ひたちのくにふどき)といわれ、筑波山と共に富士山が「駿河國福慈岳」という表記で記されています。
その後、「続日本記」(しょくにほんぎ)にて781年の富士山の噴火の様子がはじめて記され、その他、『日本紀略』『富士山記』などでも噴火の様子などが描かれ、記録に残っているもので最大ともいわれる864年貞観の大噴火については『日本三代実録』など多くの書物に記録が残されています。
この貞観の大噴火の被害は特に大きく、噴火の恐怖を鎮めるため新たな浅間神社が建てられたほか、浅間神社に祀られる浅間大神はこの時代に時の朝廷により「名神大」という神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる称号に昇進しています。
また、奈良時代より万葉集などの和歌にも富士山が詠まれ、 不盡・布時・布自・不自など様々な漢字があてられましたが平安時代以降「富士」という表記に落ちついたといわれています。
その他、この時代の富士登山の記録は噴火の影響もあってかほとんどなく、聖徳太子が名馬「黒駒」に乗り山頂に上ったという伝説、修験道の開祖といわれる役小角(えんのおづぬ)が流刑先の伊豆大島から毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったともいわれる伝説以外では、都良香によって書かれた「富士山記」、平安時代末期に富士山頂に大日堂を建立したといわれる末代上人の記録くらいです。
次回に続く。