はじめに
雄大な富士山の姿は、古来より多くの人々を魅了してきました。その中でも、江戸幕府を開いた徳川家康ほど富士山と深い絆で結ばれた歴史上の人物はいないでしょう。今回は、日本の象徴である富士山と天下人家康の知られざる関係について、興味深いエピソードと共にご紹介します。

家康の人生と富士山 ~三度の駿府での日々~
徳川家康の人生を振り返ると、富士山は常に彼の人生の節目に寄り添っていました。
人質時代(8歳~19歳)
家康は8歳の頃から今川氏の人質として駿府(現在の静岡市)で過ごします。少年時代の12年間、彼は毎日のように富士山を仰ぎ見ながら成長しました。この時期の体験が、後の家康の富士山への特別な思いの原点となったのです。
武田攻略後の駿府復帰(45歳)
武田家を滅ぼした後、家康は再び駿府に戻ります。戦国の世を駆け抜けた武将として、富士山は彼にとって心の支えでもありました。
大御所時代(65歳~75歳)
江戸幕府を開いた後、家康は大御所として三度目の駿府暮らしを始めます。晩年の約10年間を過ごした駿府城からは、富士山の美しい姿を間近に望むことができました。
織田信長への「富士遊覧」接待
天正10年(1582年)、武田氏を滅ぼした織田信長の凱旋を祝して、家康は歴史に残る「富士遊覧」の接待を行いました。
この接待で家康は:
- 中道往還の整備:甲州から駿河へ至る街道を整備し、要所要所で手厚い歓待
- 富士山本宮浅間大社での宿泊:信長の宿泊所として御座所を造営。金銀が散りばめられた豪華なもの
- 富士山見物の演出:富士山の絶景を信長に楽しんでもらうための様々な工夫
この富士遊覧は大成功を収め、信長から太刀と馬を贈られるほど喜ばれました。しかし皮肉にも、この返礼として行われた安土城への招待が本能寺の変の遠因となってしまいます。
富士山本宮浅間大社との深い関係
社殿の造営
関ヶ原の戦いに勝利した家康は、そのお礼として慶長9年(1604年)に富士山本宮浅間大社の社殿を約30棟も造営しました。これは単なる寄進ではなく、家康の富士山への深い信仰心を示すものでした。
革新的な「浅間造り」
特に注目すべきは本殿の構造です。家康のアイデア??とされる「浅間造り」は:
- 1階部分:富士山そのものを表現
- 2階部分:山頂に鎮座する浅間大神の神聖な天上界を意識
この二階建ての珍しい構造は、家康の芸術的センスと宗教観を物語っています。
富士山頂の所有権確定
家康は富士山8合目以上を浅間大社の境内地として寄進しました。江戸幕府が発行した「幕府裁許状」には**「富士山八合目より上は大宮持ちたるべし」**と明記されています。
政治的象徴としての富士山
家康にとって富士山は単なる美しい景色以上の意味を持っていました。
将軍権威の象徴化
- 江戸城との一体化:江戸城の背後に富士山が見えることで、将軍と富士山が一体化して見える演出
- 富士見櫓の設置:明暦の大火後、天守閣の代わりに富士見櫓を設置
- 床の間の富士山画:将軍の寝室兼執務室の床の間に富士山の絵を配置
不死への願い
久能山東照宮から富士山を通って日光東照宮へと一直線に結ぶライン。古来「不死の山」とも呼ばれた富士山を通過することで、家康が永遠の存在になることを表現したとも言われています。
家康の富士山愛を物語るエピソード
「一富士、二鷹、三茄子」の由来
駿府への隠居を決めた際、愛妾に理由を問われた家康は答えました:
「駿河には一に富士山、これは三国中(日本・中国・天竺)唯一の名山。見飽きることがない。二に鷹がよい。三に茄子を名産として、他所より味が良い」
富士山頂の散銭管理
江戸時代、富士山の噴火口に賽銭を投げる人が多くいました。家康はその散銭を浅間大社の社殿修理費として活用する制度を整備しました。これは富士山信仰を政治的に活用した巧妙な仕組みでした。
江戸時代の富士山信仰発展
家康の富士山重視政策は、江戸時代を通じて富士山信仰の発展に大きな影響を与えました。
富士講の隆盛
- 長谷川角行を祖とする富士講が庶民に広まる
- 「江戸にかかるな、火事に駈(か)けるな、伊勢参りに富士詣り」と言われるほどの人気
- 関東・中部地域を中心に爆発的な興隆
庶民文化への影響
- 浮世絵における富士山の定型化(狩野探幽の影響)
- 富士塚の建設(富士山に登れない人のための代替参拝所)
- 文学・芸術作品での富士山表現の確立
現代に受け継がれる遺産
家康が確立した富士山と政治権力の結びつきは、現代にも影響を与えています。
現在も続く所有関係
- 富士山8合目以上は現在も富士山本宮浅間大社の所有
- 1974年の最高裁判所判決で正式に確認
- 静岡県と山梨県の県境問題も、この歴史的経緯が影響
文化的影響
- 富士山の世界文化遺産登録(2013年)
- 「信仰の対象と芸術の源泉」としての価値認定
- 家康時代からの信仰文化が評価の基盤
おわりに
徳川家康と富士山の関係は、単なる個人的な愛着を超えた、政治的・宗教的・文化的な深い絆でした。家康が築いた富士山信仰の基盤は、江戸時代を通じて発展し、現代の私たちが富士山に抱く特別な思いの源流となっています。
富士山を仰ぎ見るとき、かつてこの同じ山を見つめながら天下統一の夢を抱いた家康の思いに馳せてみてはいかがでしょうか。日本の象徴である富士山には、天下人の壮大な夢と深い信仰心が今も息づいているのです。