今回のテーマは「徳川家康と富士山」
日本三英傑の1人で250年に及んだ江戸時代の基礎を作り、2023年の大河ドラマ「どうする家康」の記憶も新しい、偉大なる歴史上の人物である徳川家康と富士山の関係についてです。
徳川家康は元々今の愛知県岡崎市の生まれですが、8才の頃から今川氏の人質として駿府(今の静岡市)に移り住みます。
そして、19才の時今川義元が桶狭間で戦死したことで岡崎に戻りますが、武田家を滅ぼした45才との時に再び駿府へ戻ります。
49才の時、秀吉の命により江戸へ移ることになり再度離れることになりますが、大御所となった晩年に三たび駿府へ。75才で亡くなるまでのおよそ10年過ごしました。
駿府からは富士山がきれいに見えます。
少年時代、戦国の世を駆け抜けた時代、そして晩年と家康は常に富士山を仰ぎ見てこの時代を生きてきたわけです。
富士山本宮浅間大社、全国に約1300ある浅間神社の総本宮で富士山を御神体として祀る神社ですが、家康は征夷大将軍となった翌年の1604年にこの神社の社殿を寄進、つまり造営(建て替え)しています。
富士山を学ぶ:浅間神社富士山の信仰について学んでいきます。
今回は富士講とも深く関係する「浅間神社」(せんげんじんじゃ)について学んでいきます。浅間神社は噴火する山をつかさどる神、浅間大神(あさまのおおかみ)を祀る神社として、山の噴火、主に富士山の噴火を鎮めるために建立された神社といわれています。...
中でも本殿は浅間造りと言われる珍しいと2階建の構造になっており、1階部分は富士山、2階は山頂にいる浅間大神が鎮座する神聖な天上界を意識して築かれたといわれます。
そして、このアイデアを出したのは家康と言われています。
また、かつて浅間大社を経由する甲州と駿河をつなぐ中道往還という街道を補完する道がありました。
現在の国道139号線に相当する富士山西麓の道で、甲州〜駿河へ至る道として武田信玄や織田信長ら戦国大名が利用した道です。
家康は信長に仕えていた頃、主君信長に対してその中道往還から望む富士山を見せる富士遊覧の接待を行い、大いに信長を喜ばせたというエピソードがあります。
いずれの話も家康にとって富士山はお膝元であるという事をあらわしています。
そして家康は75歳。
駿府でその生涯を閉じるわけですが、その亡骸は遺命により駿府にある久能山東照宮に埋葬され(諸説あり)東照大権現として祀られることになります。
そしてこの東照宮と富士山にまつわる話があり、静岡県にある久能山東照宮から富士山へ向かって線を引くとその先は見事に栃木県にある日光東照宮まで一直線につながるのです。
この事から古くから不死の山とも呼ばれた富士山を通過することで、家康が不死の存在、つまり神になるということを表しているのでは?というもの。
そのような話が語られるのもそれだけ富士山及び徳川家康が偉大であるということなのだと思います。
日本の象徴である富士山。
そしてその日本を長きに渡って統治し続けてきた徳川家の祖である家康。
もっとその繋がりを調べてみると他にも意外な発見がありそうですね。