はじめに:平安時代の文学少女が遺した奇跡の記録
今から約1000年前、平安時代中期に生きた一人の女性が、上総国(現在の千葉県市原市)から京都への長い旅路で目にした富士山の姿を、驚くほど美しい文章で記録しました。その女性こそ、『更級日記』の作者・菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)です。
彼女が見た富士山は、現在の私たちが知る静寂な富士山とは全く異なる姿でした。なぜなら、平安時代中期の富士山は「生きている火山」として活発に煙を上げ、夜には火を噴く活火山だったのです。

平安時代の富士山―噴煙と美の神秘的な融合
孝標女が描いた富士山の美しい描写
『更級日記』の中で、孝標女は富士山をこのように描写しています:
「さまことなる山の姿の、紺青(こんじょう)を塗りたるやうなるに、雪の消ゆる世もなくつもりたれば、色濃き衣(きぬ)に、白き衵(あこめ)着たらむやうに見えて、山のいただきのすこし平らぎたるより、煙は立ち上る。夕暮は火の燃えたつも見ゆ。」
現代語に訳すと: 「この山は、ほかの山とはちがう特別な姿をしていて、まるで深い青色の絵の具でぬられたように見えます。その上に、雪がとける間もなくいつも積もっているので、濃い色の着物の上に白い衣を重ね着しているように見えます。山のてっぺんは少し平らになっていて、そこから煙がのぼっていて、夕方になると火が燃えているのが見えることもあります。」
この描写の革新性と特徴
- 色彩感覚の豊かさ:「紺青を塗りたるやうなる」という表現で、富士山の深い青色を鮮やかに表現
- 衣装の比喩:「色濃き衣に、白き衵着たらむやう」として、山を人に見立てた優雅な比喩
- 動的な表現:煙が立ち上り、夜には火が見えるという、生きている火山の姿を記録
活火山としての富士山―平安時代の火山活動
平安時代の富士山噴火記録
平安時代の富士山は非常に活発な火山活動を繰り返していました:
- 貞観6年(864年):貞観の大噴火、青木ヶ原溶岩流
- 承平7年(937年):焼山溶岩流(剣丸尾第一溶岩流)
- 寛仁4年(1020年):孝標女が旅をした年にも火映現象
この時代の富士山は、現在の宝永噴火(1707年)以来300年以上も静寂を保つ富士山とは全く異なる、常に煙を上げる活火山だったのです。
富士川での神秘的な逸話―神々の会議
『更級日記』には、富士山に関するもう一つの興味深い話が記されています。富士川のほとりで地元の人から聞いた不思議な話です。
黄色い紙の予言
ある人が富士川で休んでいると、川上から黄色い紙が流れてきました。それを拾って見ると、朱筆で来年の国司の人事が詳細に書かれていました。そして翌年、その紙に書かれた通りの人事が実際に行われたのです。
地元の人はこう語ります:
「来年の司召などは、今年この富士の山に、そこばくの神々あつまりて、ないたまふなりけり」
(来年の人事などは、今年この富士山に、たくさんの神々が集まって、決めていらっしゃるのです)
この逸話の文学的意味
この話は単なる奇談ではありません。平安時代の人々にとって富士山が:
- 神聖な山として崇められていたこと
- 政治的な運命をも左右する神秘的な力を持つと信じられていたこと
- 自然現象と政治、人事が密接に関連していると考えられていたこと
を示す重要な記録なのです。
『更級日記』の文学史的価値
当時としては画期的な自然描写
平安時代の文学において、自然の描写は歌枕(有名な名所)を踏襲することが一般的でした。しかし孝標女の富士山描写は:
- 実体験に基づく生き生きとした描写
- 個人的な感性による独創的な表現
- 火山活動という動的な要素の記録
という点で、当時としては非常に革新的でした。
現代に通じる感性
「紺青を塗りたるやうなる」という色彩表現や、衣装に例えた比喩は、現代の読者にも鮮やかに富士山の美しさを伝えます。千年の時を超えて、彼女の感性は今なお私たちの心に響くのです。
おわりに:千年前の感性が現代に伝えるもの
『更級日記』の富士山描写は、単なる古典文学の一節ではありません。それは:
- 活火山としての富士山の貴重な記録
- 平安女性の豊かな感性と文学的才能の証明
- 自然と人間の深い結びつきを示す文化的遺産
- 千年前の日本人の美意識と価値観の宝庫
として、現代の私たちに多くのことを教えてくれます。