日本の歴史に燦然と輝く聖徳太子(厩戸皇子)。
その数々の偉業とともに、神秘的な伝説もまた多く語り継がれています。中でも、愛馬「甲斐の黒駒」に乗り、霊峰・富士山を空高く越えたという話は、私たちの想像力を掻き立てる壮大な物語です。
今回は、この聖徳太子と富士山の伝説的な結びつきについて、古典文献や研究を手がかりに、その魅力と背景に迫ります。
伝説の源流:『聖徳太子伝暦』と「甲斐の黒駒」
聖徳太子と富士山を結びつける最も有名な伝説は、**「甲斐の黒駒」**にまつわるものです。
平安時代初期(917年頃)に成立したとされる**『聖徳太子伝暦』**には、驚くべき記述があります。それは、推古天皇6年(598年)、聖徳太子が甲斐国(現在の山梨県)から献上された神馬「黒駒」に乗り、富士山頂まで飛翔し、さらに信濃国(現在の長野県)まで空を駆けたというのです。
この「富士登山伝説」とも言えるエピソードは、聖徳太子が単なる為政者ではなく、超人的な力を持つ存在として認識されていたことを示唆しています。
絵画に描かれた伝説:『聖徳太子絵伝』の衝撃
この伝説は、文字だけでなく絵画によっても広まりました。平安時代後期に秦致貞(はたのちてい)によって描かれたとされる**『聖徳太子絵伝』**には、黒駒にまたがり富士山の上空を飛ぶ聖徳太子の姿が描かれています。これは、現存する最古の富士山絵画の一つとしても非常に価値が高いものです。
絵解き文化が盛んであった中世において、このような絵伝は、文字を読めない人々にも聖徳太子の超人的なイメージと富士山の神聖さを視覚的に伝え、伝説をより強固なものにしていきました。
なぜ聖徳太子と富士山は結びついたのか?
では、なぜ聖徳太子と富士山という、一見直接的な関わりのない二者が、このようなドラマチックな伝説で結びついたのでしょうか?
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霊峰富士の宗教的価値と太子の仏教者像の結合: 古来より霊山として崇められてきた富士山。その神聖なイメージと、仏教を篤く保護し、四天王寺などを建立した聖徳太子の仏教者としてのカリスマ性が結びつき、より一層神格化されたと考えられます。
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中世太子信仰の広がりと富士山霊場化の連動: 中世になると、聖徳太子を観音菩薩の化身とするなど、太子信仰はますます広がりを見せます。時を同じくして、富士山も修験道の修行場として、また庶民の信仰登山の対象として霊場化が進みました。この二つの大きな信仰の流れが共鳴し、伝説が生まれた、あるいは補強された可能性があります。
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修験道開祖・役小角との並列伝承: 修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ)の伝説と、聖徳太子の富士山飛翔伝説は、しばしば並列して語られます。これは、超人的な能力を持つ聖者が霊山を支配するという、当時の人々の山岳信仰観を反映しているのかもしれません。
伝説の広がりと受容:富士講と浅間信仰
江戸時代に入ると、庶民の間で富士山信仰「富士講」が大流行します。富士講の人々は、聖徳太子を篤く信仰し、太子像を富士山に奉納することもあったと言われています。
また、富士山の神である浅間大神(木花咲耶姫命)を祀る浅間信仰とも、聖徳太子の伝説は融合していきます。これは、神道と仏教が混淆する「神仏習合」の一つの形として、聖徳太子と富士山の結びつきをさらに深める要因となりました。
歴史的事実か、それとも…?
重要なのは、これらの伝説は**歴史的事実というよりも、信仰や物語の中で育まれた「伝説的な結びつき」**であるという点です。
『聖徳太子伝暦』や『聖徳太子絵伝』といった文献や美術作品が、これらの伝承を後世に伝え、拡大させる媒介役となったのです。
現代に息づく伝説の「名残」
では、現在の富士山やその周辺に、この壮大な伝説を偲ばせる「名残」はあるのでしょうか?
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富士山8合目「太子館」: 富士山の登山道8合目には「太子館」という山小屋があります。その名称の由来には諸説ありますが、聖徳太子の富士登山伝説と結びつけて語られることもあります。
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山梨県甲州市「万福寺」の馬蹄石: 黒駒が蹄を休めたとされる「馬蹄石」が残るという伝承を持つ場所も存在します。
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地名や寺社の縁起: 富士山麓の古い寺社の縁起や、地域に残る地名に、聖徳太子や黒駒に関連するものがひっそりと息づいているかもしれません。
これらの「名残」は、直接的な証拠とは言えないかもしれませんが、伝説が人々の心に深く刻まれ、語り継がれてきた証と言えるでしょう。
まとめ:伝説が織りなす聖徳太子と富士山の壮大なロマン
聖徳太子が愛馬「甲斐の黒駒」と共に富士山を翔けたという伝説は、単なる空想物語ではありません。そこには、聖徳太子への深い敬愛、富士山への畏敬の念、そして日本の宗教観や文化が複雑に絡み合っています。
古典文献を紐解き、絵画を鑑賞し、そして富士山そのものに想いを馳せる時、私たちは時空を超えて、この壮大なロマンに触れることができるのです。