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富士山東口の要、須走浅間神社 – 世界遺産構成資産を巡る旅

皆さん、こんにちは!今回は、世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一つである、冨士浅間神社(須走浅間神社)についてご紹介します。富士山の東麓、須走口登山道の起点に位置するこの神社は、古くから富士山信仰の中心地として、そして登山者にとっての出発点として重要な役割を果たしてきました。その歴史的背景、文化的意義、そして美しい自然環境について、詳しく見ていきましょう。

須山浅間神社:富士山信仰を伝える歴史と自然の宝庫富士山の麓、静岡県裾野市に佇む須山浅間神社。その歴史的な社殿や、樹齢400年以上の杉の巨木に囲まれた参道は、訪れる人々に神秘的な雰囲気を...

平安時代に始まる、噴火鎮静の祈り

須走浅間神社の創建は、平安時代初期の大同2年(807年)に遡ります。延暦21年(802年)に富士山東麓で起こった噴火を鎮めるため、国司や郡司がこの地に斎場を設けて祈願したところ、噴火が収まったと伝えられています。この霊験に感謝し、社殿が建立されたのが神社の始まりです。古くは「弘法寺浅間」とも呼ばれ、空海が開闢したという伝承もあり、仏教的な要素も併せ持っている点が興味深いですね。

中世から江戸時代へ、富士登山の拠点として

中世に入ると、須走口登山道が整備され、神社は富士登山の拠点としてますます重要な役割を担うようになりました。室町時代には登山道が確立し、須走浅間神社は須走口の下宮として多くの人々に崇敬されました。戦国時代には、武田信玄が神社を厚く庇護し、社殿の再建や修繕費用を寄進しました。江戸時代には、小田原藩主をはじめとする歴代藩主からの崇敬を受け、社殿の維持が行われましたが、宝永4年(1707年)の宝永大噴火で大きな被害を受けました。その後、享保3年(1718年)に再建され、現在の社殿の基礎が築かれました。

富士講の隆盛と信仰の広がり

江戸時代中期以降、富士講の隆盛に伴い、須走浅間神社は富士登山者の重要な拠点となりました。富士講とは、富士山を霊山として崇め、登拝を通じて精神的な浄化や悟りを得ることを目的とした信仰組織です。全国から多くの信者がこの地を訪れ、富士山頂への登拝を目指しました。須走浅間神社は、富士山信仰の中心地として、人々の精神的な支えとなったのです。

世界文化遺産として、現代に受け継がれる価値

平成25年(2013年)、須走浅間神社は「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として世界文化遺産に登録されました。この登録は、富士山信仰の歴史的・文化的価値を象徴する構成資産としての評価を裏付けるものです。現在もなお、富士山登山の拠点として、また地域の信仰の中心としてその役割を果たしています。

御祭神と神徳、そして境内を彩る自然

主祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)で、配神として大己貴命(おおなむちのみこと)と彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)が祀られています。木花開耶姫命は、安産や火難除けの神徳を持つとされ、地域住民や登山者からの信仰を集めています。

境内に足を踏み入れると、そこは静寂に包まれた神聖な空間です。ハルニレや根上がりモミなどの天然記念物があり、自然環境と調和した美しい景観は、訪れる人々の心を癒してくれます。特に、樹齢300年とも言われる「根上がりモミ」は、火山灰土の流亡によって根が露出した珍しい姿で、必見です。

文化財としての価値と、守り継がれるべきもの

現在の社殿や神門は、江戸時代の再建時の遺構を基に改修が重ねられたもので、歴史的価値が高いとされています。これらの文化財は、富士山信仰の歴史を語る上で欠かせない存在です。神社は、富士山の噴火鎮静を祈る場としてだけでなく、地域の農業や生活を支える信仰の中心地としても機能してきました。

まとめ

冨士浅間神社(須走浅間神社)は、富士山信仰の歴史を象徴する重要な神社であり、噴火鎮静の祈願から始まったその歴史は、富士山を中心とした日本の宗教文化の発展を物語っています。富士登山を計画されている方はもちろん、歴史や文化に興味のある方も、ぜひ一度訪れてみてください。

最後に

このブログ記事を通じて、冨士浅間神社(須走浅間神社)の魅力の一端でもお伝えできたなら幸いです。世界遺産の構成資産として、これからも大切に守り継がれていくことを願っています。

ABOUT ME
富士山ガイド竹沢
静岡県裾野市在住。 富士山に暮らす富士山ガイド 富士山エコネット認定 エコツアーガイド 日本山岳ガイド協会認定 登山ガイドステージⅡ