前回学んだ富士山の登山道の続きとして、富士山頂へ続く各登山道の歴史やその背景について学んでいきます。
今回は現在富士宮ルートと呼ばれる表口「大宮・村山口登拝道」
大宮・村山口登拝道
富士修験道の基礎を築いたといわれる末代上人、通称「富士上人」に始まると言われる登拝道。富士講が盛んになる以前に栄えた村山修験、この地より実質的な富士登山が始まり多くの修験者たちが富士山頂を目指すようになります。
村山修験は15世紀に京都の聖護院との関係が深まることで尾張や伊勢など西国から多くの修験者が訪れ、彼らは富士川を渡り大宮(現在の富士宮市)に入り「富士山本宮浅間大社」で参拝したのち、村山へ進み「村山浅間神社」で参拝、ここから村山口の富士山登拝道となり頂上めざし登拝していきます。このように大宮を経由し村山口から登拝することで、大宮・村山登山口登拝道と称されるようになりました。
村山口は中世には8合目以上の頂上所有権を持ち(現在は富士山本宮浅間大社が所有権)隆盛をきわめ、大宮口と拮抗し繁栄していきます。また、村山修験は駿河の国を治めていた今川氏の庇護のもと強力な勢力を誇っていましたが、今川氏滅亡とともに徐々に衰退していきます。
ただ、その後も富士登拝の主流は大宮・村山口であり江戸時代中期まで続き、そして1707年宝永の大噴火が起こり道の一部が通行不能となってしまいます。その後復旧するも、約20年後には富士講の一大ムーブが起こり江戸の登拝者のほとんどは、北口または東口へからの登頂を目指すようになります。
そして明治に入り廃仏毀釈が起こり登拝者が激減、そして1889年(明治12年)東海道線開通により御殿場駅が新たな富士山の起点となる御殿場口登山道が開かれ、更に1906年(明治39年)に富士山本宮浅間大社から山宮浅間神社を経由する新大宮口「富士宮登山道」も開かれ、村山浅間神社を通らない山頂への道の出現とともに村山口及び村山登拝道は衰退、廃絶していくことなります。
その後、廃道となっていた村山登拝道は2005年(平成17年)に一部ルートの変更はあるもの村山古道として、村山浅間神社から富士宮口六合目へ合流するルートが全復旧しています。
富士宮口登山道
江戸時代、村山口へ至り富士山へ登頂する際には、大宮口(富士山本宮浅間大社起点)を経由しなけれなばならないというお触れが出されていました。
その一方で村山口と大宮口は修験者を取り合う競合関係であり折り合いも良くなく、村山側としてはどうにか大宮を経由せず来て頂こうと様々な算段を行い、功を奏したこともあったが広がらず、前述したとおり明治に入り衰退します。
その後、静岡県側においては新大宮口「富士宮登山道」が主流となっていきます。
1930年(大正12年)には富士身延鉄道(現在の身延線)が開通、大宮町駅(現在の富士宮駅)ができたことで、起点である富士山本宮浅間大社へのアクセスも容易になります。
また、富士山へ続くバス路線の開通により新大宮口「富士宮登山道」も徐々に衰退、そして、1969年(昭和44年)富士山スカイラインの開通により旧バス道とともに廃道となります。
そして現在、表口「大宮・村山登拝道」といわれた登山道は富士宮ルートと呼ばれ、富士宮表口五合目を起点とし四つのルートでは最も標高の高い場所からスタート、駿河湾を背にし最短ルートで頂上へ至ります。たどり着いた山頂には富士山本宮浅間大社奥宮が鎮座、登頂を労ってくれます。